レオナルド・ダ・ヴィンチ≪モナ・リザ≫、1503-05年、パリ、ルーヴル美術館蔵
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レオナルド・ダ・ヴィンチ、二人の老人(いわゆるグロテスク・ヘッド)の素描、
1490年頃、イギリス、ウインザー宮、ロイヤル・ライブラリー、素描番号12490 |
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519年)の描いた奇怪な人物像(一般的に「グロテスク・ヘッドと呼ばれる)が気になってきたのは、今年度の授業準備をしていたときだった。「表象の文化史」の導入部を微笑の表情で名高い≪モナ・リザ≫の絵(1503-05年頃)で始める用意をする一方で、「微笑」の影に隠れた「奇怪なもの」に対するレオナルドの執着を「グロテスク・ヘッド」と関連させて話そうとも考えていた(後で話題とする「グロテスク文様」の問題は、現在ではその重要性が装飾の分野で明らかとなってきており、「装飾芸術を見る/読む 1」の中でやや詳しく取り上げる予定にしていた)。
こうした準備の段階で、レオナルドにおける「微笑」と「奇怪なもの」との係わりについて、思いがけない示唆を与えてくれたのが、フランスの美術史家アンドレ・シャステルの大著『ロレンツォ豪華王の時代の芸術とユマニズム』(1982年、第3版に拠る)中の「微笑と怒り」と題するごく短い項目の指摘であった。すでに授業で話したことと重なるが、シャステルの指摘を手がかりに、「グロテスクの系譜」の美術家としてのレオナルドをめぐり、シュルレアリスムの登場で突然注目されるに至った中世末期のオランダの幻想的な画家ボスとの対応関係に気づくなど、紆余曲折しながらリサーチした経緯を以下に書き記しておきたい。

ヴェロッキオ≪ダヴィデ像≫(頭部拡大図)、1478年、
フィレンツェ、バルジェロ美術館蔵 |
ヴェロッキオ≪コレオーニ騎馬像≫(拡大図)、1488年、
ヴェネツィア、サンティ・ジョバンニ・エ・パオロ広場
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上記の短い項目の中で、シャステルはまず、レオナルドの師匠であったヴェロッキオの彫刻のレパートリーの中に「美しい顔立ちの青年」と「憤怒をあらわに示す顔立ちの武将」とを対比的に示す表現が存在していたと指摘する。事実、ヴェロッキオの現存する彫像群中には、この対比的な表情を示す名高い作例として、≪ダヴィデ像≫(1478年)と≪コレオーニ騎馬像≫(1488年)とが残されている。また、晩年のヴェロッキオの彫刻群の中では、猛々しい感情の描出は影を潜め、冷ややかで謎めいた表情が目立つようになり、レオナルドは、師のこの種の表現を精妙な微笑の絵画描写へと洗練させていったと考えられる。
そのため、完璧な絵画技法とともに、解剖学・遠近法を含む膨大な科学的知識に基づき至高の美を求めた天才と見なされてきた「レオナルド神話」の影に隠れて、もう一方の壮年や老人のグロテスクな人物像の系譜は、長い間忘れ去られた状態にあった。
レオナルド、老人と美青年、フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵、素描番号423F |
ところが、シャステルによれば、この対(つい)をなす人物類型こそ、一生涯に渡りレオナルドの心から離れなかった執着を端的に示すものであり、このことを明らかにしたのが、イギリスの美術史家ケネス・クラークだったという。ケネス・クラークは、レオナルドの全体像を探索するための大鉱脈の一つ、イギリスのウインザー宮に所蔵される膨大な素描の綿密なカタログを長い年月をかけて完成させていた。そして、彼は、ウインザー宮所蔵の素描群中にも見出される「グロテスク・ヘッド」の意味するところを、レオナルドに関するモノグラフィーの中で、次のように述べている。このエセーの出発点の要点をなす事柄なので、やや長くなるが、肝心な箇所を引用しておこう。
「レオナルドが(これらを)描いた動機には、好奇心のほかに、もっと深い動機がある。それはゴシックの建築家が聖堂の屋根に、異様な怪物の形をした吐水口(ガルグイール)を取付けたのと同じ動機である。ゴシック建築のこうした怪物は聖者を補うものであり、レオナルドのカリカチュアは彼の飽くことなき理想美の探究を補うものであった。この怪物は、人間の心の中から神聖なものが消え去った時、心の中に残る一切の激情、暴力、カリバン(シェークスピアの『テンペスト』に出てくる醜悪で奇形の奴隷)的な唸(うな)りと呻(うめ)きの表現だった。しかしレオナルドは、中世のゴシック芸術家ほどは、人間の心の中の神聖なものに関心をもっていなかったから、彼のカリカチュアは、激しいエネルギーを表現する場合には、知らず知らずのうちに雄々しい人間の姿に変わる。その典型が、ひどい渋面をし、あごが鼻にくっついた男で、こういう男はカリカチュアとして描かれる場合もあり、その癖(くせ)のある容貌は旺盛な精力と確固たる精神を象徴しているように思われる。そしてこの男は、レオナルドが同じようにすらすらと描きだしたもう一方の人物、アンドロギュノス的、すなわち男女両性具有的な若者と一対をなしているのである。事実、この二人はレオナルドの無意識が産んだ二つの象形文字であり、注意力が散漫になった時、彼の手が勝手に創り出した二つの像であって、たとえどんなに下手に描かれていても、見逃すことができない重要性をもっている。」(丸山修吉/大河内賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ 第2版』、法政大学出版局、1981年第2版、102ページ)
レオナルド、5つの頭部像、1494年頃、ウインザー宮、ロイヤル・
ライブラリー蔵、素描番号12495r
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ヒエロニムス・ボス≪十字架を担うキリスト≫、1510‐16年、ゲント市立美術館蔵 |
そして、この「グロテスク・ヘッド」に係わる問題は、レオナルド個人に対する天才賛美を非神話化するにとどまらない、より大きな広がりと意味を持っている。すなわち、私たちの視線を1500年前後の北ヨーロッパの絵画の領域に向けてみるならば、レオナルドのグロテスク・ヘッドの幾つかの素描が、中世末期のオランダの画家ヒエロニムス・ボスの作品、特に≪十字架を担うキリスト≫(1510-16年頃)中の奇怪で生々しい迫害者たちの容貌と紛れもなく呼応していることに気がつくのである。
ボスはオランダ南部の都市セルトーヘン・ボスで生涯を過ごした画家だが、彼はレオナルドのように知的な好奇心に駆られて手記を埋め尽くすタイプの芸術家ではなかったらしく、彼の実像や活動についての同時代人の証言も殆ど伝わっていない。シュルリアリスムの展開に伴い、にわかに注目を浴びた当初は、彼が異端の宗教団体(アダム派)に属していたのではないかと推測されたりもしたが、今日までの歴史資料から浮かび上がってくるのは、異端の画家というイメージとは程遠い、平凡な生活を送っていた彼の姿だけである。
ところで、ボスの亡年が文書資料を通して1516年と明らかなのに反して、彼の生年は不明である。だが、1490年頃の記録の中で、彼が独立した画家と記されていることから、その生年は1450年代の前半と推定できる。とすると、ボスの生没年はほぼレオナルドと重なり、奇怪な宗教画を描いたことで知られるボスは、≪モナ・リザ≫の画家と同時代人であり、二人は「再生」の期待と「最後の審判」の不安が大きく交錯した1500年前後の西欧における未曾有の転換期を生きていたことになる。

オランダの商業都市スー・ヘルトヘン・ボス、シント・ヤンス聖堂の飛梁を跨ぐかたちで彫り込まれた無数の異形の怪物たち、15世紀
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ルカ・シニョレルリ、≪グロテスク文様を驚いて見上げる古代ギリシアの哲学者エンペドクレス≫、
1499‐1504年、オルヴィエート大聖堂、
サン・ブリチオ礼拝堂の基壇の壁画部分
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ヒエロニムス・ボス≪悦楽の園≫の中央パネル上部(「グロテスク文様」のレパートリーからの影響を示す部分)、
1500年頃、マドリード、プラド美術館蔵 |
ボスに係わって、私たちも彼が全生涯を過ごした南オランダの中世からの商業都市セルトーヘン・ボス(この画家の現在知られる名前はこの町に由来する)のシント・ヤンス大聖堂(15世紀)の傍らに立ってみることにしよう。すると、街路からもその一部が見える飛梁(中央の一段高い身廊を文字通り支える石造の梁)には、ほぼ1,2メートル間隔で、ケネス・クラークの言うさまざまな異形の怪物たちが彫り込まれているのに気がつく。ボスは、この町の職人たちを通じて、これらを良く知っていただろう。また今日では、中世ヨーロッパの大聖堂の外壁の彫刻から手写本の挿絵の端部に至るまで、これらのイメージは、神聖な中心部を聖別するための周縁部図像を形成していたことが分かっている。したがって、ボスは「グロテスク・ヘッド」に加えて、イタリア・ルネサンスの時代に再生された異教古代に由来する「グロテスク文様」、すなわち多量の版画を通じて、またたく間に全ヨーロッパに伝播した、「さまざまな幻想が凝縮し、・・・雑種(ハイブリット)な生き物が傍若無人に増殖する、生気に満ちた」文様(シャステル)までも同化しえたのである。
こうした点から考えると、ボスは、イタリア・ルネサンス世界から遠く離れた北欧の小都市で暮らしながらも、レオナルドの「グロテスク・ヘッド」とともに「グロテスク文様」までも実に素早く吸収して彼独自なイメージに変貌させており、おそらく彼が変貌させた画像の一部は再びイタリアへと還流していったと思われる。
1500年に前後する時代に、イタリア・ルネサンスと北ヨーロッパと間で頻繁な往復運動が生じた要因は、「僧侶も、市民も、本を読むことを学んだ農民も、君主や高位の聖職者も、歴史の大きな区分、すなわち世界の「革新」と最後の大異変が迫ってきていることを明らかにする壮大な幻想的表現を必要とした」点(シャステル)に求められると思われ、まさにこの点にこそ、この時代の重要な「象徴形式」が存在していたのである。この時期のさまざまの分野で傑出していた人物たち、たとえば、イタリアのマキァヴェッリやユリウス二世、フィチーノやレオナルドも、フランスのラブレーやドイツのデューラーも、さらにはオランダのボスもまた、この驚くべき対照性を生み出す渦巻きのただなかに否応なく巻き込まれていた。
だが、このささやかなエセーの冒頭から性急な結論を引き出そうとする愚は控えるべきだろう。とりあえず、次回に再びレオナルドの初期素描(「奇想の鎧兜」を身にまとう武将)を切り口に放しを進めてゆく際に重要な意味を持つことになる2点の作例を挙げ、今回の導入部の話をひとまず締め括ることにしたい。
伝アントニオ・ポライウオロ(1429-1498)作≪トルコの大官≫、(彫金版画、1460年頃)、ロンドン、ブリティッシュ・ギャラリー蔵
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レオナルド・ダ・ヴィンチ、≪武将の肖像≫、1480年頃、素描、ロンドン、ブリティッシュ・ミュウゼアム所蔵 |
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