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山本先生:新刊『祭礼』巻頭言

June 22, 2005
『祭礼』巻頭言全文を公開!

神々が舞い降りるとき

 太古の昔から人々は、たとえその素性を知らなくても、祝祭の場で神や精霊の息吹きに触れ、使信(メッセージ)に耳をそばだててきた。ふだんは忘れていた畏怖と歓びの感覚にうちふるえながら、いっとき、聖なるものとの魂の共同体を形成するのだ。 


 
 決して本性を示さない神もあれば、祟り荒ぶるのが身上の神もいる。その神ならではの霊異と個性を、もっともあざやかに発現させるべく生み出された祭りの数々。ここでは、仮に五つの柱を立てて、地域も、担い手も、様式も異なる祭りたちを拾ってみた。
  

 祭りとは、時を選んで、訪れた神と人々が交渉する濃密な時空といえようか。どのように神々を迎え、どのように帰すのか。そのプロセスと方途に、信仰の秘密や文化の形成力がひそんでいる。


 視えない神霊の降臨を視えるかたちにするために、神懸りが必須となり、仮面神や異装の精霊たちが出現した。そして祈りや希求を神に届けるために、儀礼や舞が生起し、異言や神歌、祭文が紡ぎだされ、祭具の数々が構想された。祭りのなかに見出すものは、人々の叡智とわざ、表現行為そのものなのだと気づかされる。 
  

 
 ムラ=共同体のなりたちと深くかかわる祭りは、他者を拒み、タブーで己れを守ることによって、伝承という力を獲得してきた。海や山、路傍や森の暗がり、仏堂や祠。神が宿るさまざまな聖所は、人々の日々の暮らしと記憶の古層がまじわる磁場だ。霊地と神たちのたたずまいに、土地土地の歴史、「生」と「死」のありようが影印されている。

 踏み込んではならない領域、その敷居に立って祭りを追う営みは、観察者が観察されるという逆説の発見でもあった。他界存在からの視線、祭りの縁(ふち)に輝くアウラが、私たちの「今」を反照し、揺さぶり続ける。

June 22, 2005 | コメント0

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